筑波山 大御堂 節分追儺祭

昨夜は、筑波山の大御堂節分追儺祭に、はじめて参加させていただきました。

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私の叔母が古くからのお付き合いで、今まであまり知らなかったのですが、私も議員になったということで、参加することになりました。今回は、初めての参加です。
阿見町の公開討論会の進行役をした(株)高田工務店の高田専務やJCの鬼沢先輩や松岡市議、土浦の伊沢県会議員、東雲の市川社長さんなど知り合いの方が多くいらっしゃいました。

私はもともとつくば市に生まれたものではないので、筑波山の話はあまり知らないんですね。皆さんに、いろいろ教えてもらいました。

明治の「廃仏毀釈」の時に、大御堂の阿吽の仁王像が、私の地元の旧桜村の松塚の東福寺に移された話は、とても興味深く関心して聞くことができました。
いつも戸別散策をするときに、通り過ぎていただけなので、今度は、よく「阿吽の仁王像」を観察してみたいと思います。

※明治期の神仏分離と廃仏毀釈(ウィキペデアより抜粋)

一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告[1](通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」[2]などの政策[3]によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

一向宗が強い三河や越前ではこれらの処置に反発する一向一揆が見られたものの、それを除けば、全体としては大きな反抗もなく、わずか2、3年後の明治4年(1871年)頃には終息した[4]。

大阪住吉神社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年(明治6年)にほとんどが壊された。奈良興福寺の食堂は1875年(明治8年)に破壊される。出羽三山については、1874年(明治7年)以降に廃仏毀釈が始まる[5]。

例えば千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。

伊勢国(三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。その為、全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。

明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円[6]で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。

廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。

美濃国(岐阜県)の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。

一方、尾張国(愛知県)では津島神社の神宮寺であった宝寿院が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している[7]。

廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代には寺院がさまざまな特権を持っており、寺社奉行による寺請制度で寺院を通じた民衆管理が法制化され、汚職の温床となったことで、それに対する民衆の反発があったためとの説もある。藩政時代の特権を喪失したことによってもたらされた仏教の危機は仏教界の反省を促し、伝統仏教の近代化に結びついた。

尾鍋輝彦は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している[8]。