議論をする政治家は、議論を放棄すべきでない。

昨日から、新盆回りを少し。今日もこれから。

新盆で伺う当家に気を使って、お線香をあげて、すぐ帰る雰囲気が数件あった。「コロナだからね。」の言葉も早く退座する言葉としては使いやすい。

夜の地元の家で、少し長話を・・。やはりコロナの話。やはり65~70歳以上の方は、健康な方でも、不安があるようですね。

私の考えを少々。

最近では、コロナウイルスの概要が少しづつわかってきた。毎日、マスコミ報道で流れる感染者数を聴くと、

  • 感染率は高い。
  • しかしながら自覚症状もない人もいる。
  • 若い人は感染しても重症化にはならない人が多い。
  • コロナによる死亡者数も確実に減っている。
  • コロナが変異があり、K型、C型、武漢G型、欧州G型などがある。
  • ウイルス干渉がある。コロナにかかっていると、インフルエンザにはかからない。その逆もある。つまりコロナの感染が増えているが、インフルエンザは干渉の影響により、減少している。
  • ウイルス干渉は、他の感染症の病気にも言えること。
  • 持病を持たれる方は、発症すると合併症になり、危険度が高くなる。
  • しかし、これは他の感染症もおなじではないか?

政治的医療制度的の情報。

  • PCR検査を増やしたからといって、別に、コロナによる対策になっていない。
  • 韓国やドイツの対応を見習えという専門家がいたが、別に、死者数などは、日本の方が極端に少ない。
  • 他にも書かないが、少なくともコロナウイルス自体は無くならない。

これらのすこしづつわかってきた情報をもとに、今後、どのように社会生活を考えていくべきだろうか?議論が必要だ。

私どもが、議員の立場で、コロナは「ただの風邪」というものなら、そんな「無責任なことを言うな」みたいなムードが社会に雰囲気で漂っていることは事実だ。

先日も、健康診断に行った時に、お医者さんに聞いてみたら、「医者の話を信じない雰囲気がある」。また「政治に利用されている」との意見もあった。

政治家は議論をすることが仕事ともいえる。コロナの話に例えれば、ゼロリスク論を論じるのは、簡単だ。わかりやすく言えば議論を放棄していることにもなるわけだ。

コロナだから社会活動を辞める。会社もでない。会合もやらない。祭りも。旅行も。なんでもゼロ。簡単だ。

しかしながら、そんな簡単な答えを政治家が出すべきではないし、出したとしても、まず議論をしなければならない。0~100の間のやれるべきことは何なのか?を議論せずに、小池知事のように、簡単に「ゼロリスク」答えを出すのは、ある面、無責任なのではないだろうか?

議論の専門家であれば、ウイルス対策をしながらも、経済活動は続けることを模索する議論をするべきだ。

だから、私もそんな考えを持っている。議論は放棄しない。

確かに、自粛要請に応えている国民に対して、経済的な補償はすることは、当たり前だ。

まだまだ経済的補償は足りない。国も地方もおカネがあれば、どんどん補償するべきだ。

一方で、政治の議論として、0~100の中間で、今後の経済活動を衰退させない持続させるための政策は、追及するべき。そして「万機公論に決して」、国民に明確なメッセージを送るべきだ。

実際は、旅行も会社も会合も祭りも、もうそろそろ自己責任でやったらどうだろうか?そこに国民が踏み込まれないのは、政治が明確な決断をしないからだ。

批判があるのは、ゼロリスクをベースにする考え方の勢力だろう。そしてそれをまた政権批判として政治利用する輩からだろう。

議論の専門家として、政治家をしている以上、議論を放棄すること自体が間違っている。冷静な情報と的確な分析によって、有効的なコロナ対策、経済対策を政府、与党も立てて、そろそろ決断してほしい。

お盆明けが明けたら、もういいのではないでしょうか?

そうすれば解散したっていいじゃないか?

安倍総理。如何に?