令和にあたり

令和にあたり、少しコメントします。

私も年齢50歳になりました。『敦盛』の節に「人生50年」とあるから、戦国時代だったら、とうに寿命が来ている歳。しかしこれだけの超高齢化社会の現在は、今後、後50年生きる可能性は大きいだろうなと感じる。

現在、つくば市議会議員2期目。来年は選挙の年を迎える。出馬をすれば3期目の挑戦か。どうしようか?

ハプニングがなければ、挑戦する予定でいるが、政治はどうなるのかがわからないのが常だ。

学生インターンが来た時に、「何か送るメッセージはないですか?」というので、

『群盲像を撫でる』という言葉を送った。政治の世界を一言で表せる言葉だと思ったからだ。他にも『文盲像を語る』などの言い方もあるらしい。

話の発祥はインドらしい。

数人の目が見えない盲人が、それぞれゾウの鼻や牙や足や耳などを触る。その感想について語り合うと、足を触った人は「ゾウは柱のようだ」。鼻を触った人は「ゾウは木の枝のようだ」。牙を触った人は、「ゾウはパイプのようだ」。それぞれ感想が異なり、ゾウに対する意見が割れてしまう。自分が正しいと主張すると意見の対立が生まれてしまうわけだ。これは、実際には、目が見えないためにおこる現象だ。

注目すべきは、このそれぞれの意見は、どれも「正しい」ようにも考える。決して間違ってはいないはずだ。しかし、ゾウの全体像を表現するには、「間違っている」といえるだろう。

我々議員は、一つの各論で成り立っていると言えます。ある一つの支持母体が無ければ、選挙で当選できないからです。そういう意味では、各論で議員は当選できる。活動もする。当然、当選したらその各論を代弁する活動を中心にしなければならないだろう。権利の主張をしなければならないだろう。そうでなければ、応援してくれた方々に報いることはできないわけだから。

しかしながら、それだけでも果たして政治の選択はいいのか?とも考える。議員の活動はそれだけでもいいものかとも考えてしまう。

ゾウの全体像を表現するには、間違っている可能性もあるからだ。だから、私は、いつも二つの見方をしようと意識して政治活動をしているつもりだ。時には、全体像からの見方を優先するときもあれば、各論の見方を優先して選択するときもある。まさに、「51 対 49」 だ。その時によって、「49 対 51」 にもなる。そんな選択に悩んでいるのが、私の毎日の政治活動だと言ってもいい。

先ほどの「群盲像を撫でる」の話は、それぞれの意見が主張して対立が深まるが、この対立を解消することができることがある。何らかの理由でそれがゾウの別の部分であると気づき、全体像が理解できると対立が解消できるはずだ。

人間は、その目が見えない状態から脱却するのに、かなりの労力が必要だとも言える。見栄やプライド含め、自我が邪魔をしている。その自我を自覚できれば、人間としてもかなり成長できるのだろうな。

相互理解とでもいうべきものかもしれない。

令和がスタートするが、この相互理解が重要なキーワードになるのではないかと思います。