人間の誕生 と 男女の話

人間の誕生の話。

昨夜、久しぶりに、「人間の誕生」の本を読んだ。その中に、キリスト教の「人間の誕生」と、日本の古事記や日本書紀に書かれているいわゆる大和神話に描かれている「人間の誕生」とには、ちょっと違いがあることが明記されていた。
面白かったのでご紹介したくアップします。

1. キリスト教では、最初にアダム(男)が誕生している。しかしながら、アダムがとても寂しそうな様子だったので、アダムの鋤骨(肋骨あたりのことなのかな?)からイブ(女)を誕生させている。つまり、男を慰めるための存在として、女性を作ったと解釈できるそうだ。結構、現代の女性が聞いたら失礼な話だなあとの印象だ。

楽園追放という旧約聖書の話の中では、アダムとイブは、エデンの園という、仕事もしなくてもいいし、食べ物はあるし、いわゆる楽園に二人は住んでいました。そこには、神が食べてはいけないと決めた実(林檎)がありました。その林檎が『善悪の知識の木の実』と言われる実です。イブは、蛇に唆されて(そそのかされて)その禁断の実を食べてしまいます。そしてイブは、アダムにも知恵を与えたいと考えて、林檎を食べるように勧めてしまいます。結果、アダムも林檎を食べてしまいます。しかしながら、これによってアダムとイブは、神の怒りを買い、エデンの園を追放されます。また神の罰として恥ずかしいという気持ち持たされます。それから衣服をまとい、働くことで食べ物が手に入るという「労働」を与えられるようになりました。
 つまりアダム(男)にとって不可欠な伴侶としての作られたはずのイブ(女)が人間を堕落させる原因を作ったという解釈ができるそうです。

上記のような考え方で、男女の存在を考えたことはありませんでしたので、大変、興味深かったわけです。

2. さて、一方の古事記に書かれている「人間の誕生」を比較してみるとこれまた興味深い考え方があります。古事記では、独神(ひとりがみ)が、イザナギ(男)とイザナミ(女)を作りました。つまり古事記では男神と女神がほぼ同時に一緒に作られています。そして、男神の特徴である尖ったものと女神の特徴である凹んでいる形をともに補い合い、認め合って、協力し合って、多くの神や島を作りました。古事記に書かれている人間の誕生は、男女ともに至って平等で、しかも、ともに協力し合うという考え方が強く現れていることになります。古事記の序盤で書かれている「国生みの話」を参照にされると理解できます。

現代社会の考え方では、よく西洋文化の方が、男女平等が進んでいるとか?日本の方が封建的だとか男尊女卑だとかいう意見が交わされることが多くありますが、この人間の誕生の話を「キリスト教」と「古事記」とで比較すると、逆に、日本の方が男女平等に対する考え方が基本となっているというわけです。逆に、アダムとイブの話では、男性のためにイブが与えられて、人間としての堕落を導くのは女性だという解釈に思わぬ気づきと発見を感じました。女性の方が酷い扱いなのかな??と・・。とても面白いなあと・・・。

まだ続きがある。古事記の教えの中では、但し書きがあるそうだ。ただし「主導権は男が取らなければダメだそうだ」。国生みの話の中には、イザナキから声をかけたら、蛭子(ひるこ)というまともな形を成さない島ができてしまう。どういうわけか?と神様に聞くと、イザナギ(男)の方から先に声掛けをすれば上手くいくはずだという。

古事記の考え方には、男女の優劣ではなくて、男女の機能の違いを指摘し、補い合うことを描いているそうだ。私は、現代社会の人々は、たぶんおおかた間違った解釈をしている人が多いのではないかと考える。

日本の場合は、一時は武家社会が成立していたから、戦をするのが男が命を懸けていたので、男性が優位になった時代もあったことは事実だが、基本的には、日本の男女の違いの考え方は、極めて平等で、このキリスト教と古事記の「人間の誕生」のエピソードを比較して考察しても面白い解釈の結果になったと思った。

また長文になってしまったので、ご批判もあるでしょうが・・・。新盆の準備の最中にいろいろ感じたこと素直にアップしました。