つくば市の選挙に感じること。

つくば市の選挙に感じること。
これを書いているのは、平成28年11月8日の朝6時35分だ。まさに、これから朝の辻立ち(あいさつ運動)に出かける準備をしている。場所は、選挙事務所。

6日告示のつくば市長選挙の飯岡宏之氏の出陣式に、選対本部長の方の挨拶で、対立候補の応援している自民党系の市議会議員候補者を名指しで、「政治家失格」と批判したことが私の耳に届いた。
飯岡宏之氏の個人的なことについては、私は、意見を述べることは特別にはありません。しかし、市長選挙という大きな選挙戦略上について、飯岡氏の選挙の戦略として、「自民党 VS 共産党」という構図のキャンペーンをすることが選挙戦略ということだろうが?!「政治家失格」との言葉は、さすがの私も憤りを感じた。
どの大義が正しいのか?


私は、自民党の党員であることにそれなりに自負を持っている。

しかし、今回の市議選挙には公認申請をしないことになった。私どもの会派「つくば自由民主党」のメンバーが、自民党の推薦する市長立候補予定者に対して応援をせずに、対立候補を支援しているために、公認申請をしても公認されないだろうと予測されるためだ。
公認候補となった市議選挙候補者が、市長選挙の自民党の推薦候補者を支援しないのは、おかしいとのことだ。大義はない。至極もっともな話だ。理由はそれに尽きる。一つのしっかりとした大義だ。


なぜ私(私たちの会派)が自民党の推薦候補者を支援できないのか?それは鈴木まさし県議が応援しないからだ。仲間だから、みんなで一致団結した行動をとっているからだ。これも政治的な大義だ。政治家として重要なことだ。


ではなぜ、鈴木まさし県議が応援しないのか?それは、対抗馬の五十嵐たつお候補予定者から、2年前の県会議員選挙の時に、応援をもらっているからだ。結果として、あの激戦を勝利した。政治家としては、借りたものは返す。当たり前のことで、これも大義だ。


五十嵐たつお候補の選挙戦は、昨年の運動公園の白紙撤回などの一連の政治的結果を受けている影響で、野党連合の支援態勢になっていることも事実だ。しかしながら、共産党は五十嵐たつお候補の顔写真入りの広報誌などを掲載して運動をしている。実際には「共産党の推薦」はでていない。五十嵐候補の運動に共産党色が強く出ている背景の理由がそれだ。共産党の運動の影響で、野党共闘という形ではなく、共産党色が強すぎる五十嵐候補の選挙戦略には、異論がある。事実だ。私どもが、自民党の公認申請を提出しないことに決めたことも、この影響がある。私どもの自民党系議員も無所属で出馬して、ある意味では、これだけの犠牲を払って私たちの立場を考えると、本当に「市民連合」というのであれば、共産党の公認候補予定者の市議候補者も共産党の公認申請を取り下げて、公認申請をせずに、無所属で戦えばよかったのではないか?と思う。それであれば、大義があるのではないかと思う。共産党と五十嵐たつお候補との選挙戦略はどのように取り決められたのか?私が知るところではないが、・・・?


2年前の衆議院議員の解散総選挙は茨城県議会選挙と同時に行われた。地元の丹羽雄哉代議士の選挙と共に、飯岡英之候補、星田こうじ候補、鈴木まさし候補、保守同士の激戦になったことは事実。この県議選挙と衆議院の解散総選挙のダブル選挙で、つくば市の3支部長のひとりの飯岡英之元県議支部長が、丹羽雄哉代議士の応援をしていなかったと言われている。丹羽雄哉代議士の街頭演説にも来なかった。つくば市内に貼る予定の安倍総裁のべニア看板300枚も、星田候補と鈴木候補の陣営によって手配している。結果は、飯岡英之候補は落選した。なぜ飯岡英之候補は、丹羽雄哉代議士の応援態勢を避けて選挙戦を繰り広げたのか?わからないが、公認候補としての大義はなんだったのか?


つくば市長候補の推薦について、飯岡宏之候補に対して星田こうじ県議と飯岡英之元県議の2名の支部長が名を連ねているが、丹羽雄哉代議士の応援態勢を避けた飯岡英之さんが推薦者として適格者なのか?はなはだ疑問に思うのは私だけなのか?星田候補もそれを承知だったはず?自民党の役員会では何を諮ったのか?大義はなんだったのか?


自民党の飯岡氏に対する推薦決定の背景に、条件設定が付されている。その条件とは、3つの条件だ。一つ目は、次期の衆議院議員の選挙では、丹羽雄哉代議士の後継者を支援すること。二つ目は、次期の茨城県議会議員選挙では、飯岡英之元県議は出馬しないこと。これは、今回のつくば市長候補としての推薦者が、飯岡英之元県議の実弟であるためだ。兄弟で市長と県議を目指す大義に自民党幹部が政治的な疑念を感じたためと思われる。確かに『兄弟で政治を目指す大義って何?』。常識的にも一般市民に理解は得られないだろう。3つ目は、現職の市原健一市長の後継者のような選挙戦をしないことだ。昨年の住民投票の政治的な結果を考えれば、当たり前だと言える。実際の飯岡宏之候補の選挙戦は、市原市長のバックアップなしでは成り立っていないようだ。自民党はその精査をするべきだと思うが?大義はないのか?まさか、飯岡候補の応援に市原健一市長が応援に来ることはあるまいとは思うが?実際には、市原健一市長は、飯岡氏の出陣式に応援の壇上に座っていたとのことだ。条件を付されている推薦の大義とはなんだったのか?


飯岡氏の選挙戦略は、自民党の推薦を盾に、五十嵐氏の野党連合を「共産党と自民党が一緒になっている」とのネガティブキャンペーンを繰り返している。しかし、その批判を私たちは、一度も反論したことはなかった。

しかし、先の飯岡氏の出陣式での「政治家失格」の言葉を聞いて、さすがに憤りを感じる。「政治家失格」と言った挨拶の方に言いたい。政治家の資質の条件に、卑怯者でないことがリーダー、指導者の資質と言えよう。


自分の都合の悪い時は、自民党と丹羽雄哉を遠ざけて選挙戦を繰り広げ、都合がよくなると自民党にすり寄って、推薦依頼を取付け、あたかも自民党の本流のような振る舞いで、我々を裏切者呼ばわりすることが、指導者の資質なのか?あえて私は、この飯岡陣営の政治戦略、選挙戦略には反論し、批判をしたい。「卑怯」を許すわけには、いかない。


しかし、このことをSNSなどのネット上で、反論すること自体も、あえて、私は、控えて残りの選挙戦を戦おうと感じている。選挙期間中で反論したら、私自身も卑怯者となってしまうからだ。


しかし、真実を伝えたいとも思うので、選挙終了後にこのコメントをアップしようと思う。
選挙結果は、立候補者自身の全責任だと思う。それが政治家としての覚悟だ。人事を尽くして天命を待つ。これにつきる。


人の選挙どころではない。自分の選挙もままならないのに。これからまた出かける。腹が減っては戦ができぬので、食べて、さあ、出かけよう。

(平成28年11月8日の思いを選挙が終わったので、アップします。)