つくば市議会の最終日。

本日はつくば市議会の最終日。採決の最後に、集団的自衛権の行使を憲法の解釈変更で行われないことを求める意見書(案)が提出されました。

19票 vs 8票
で、可決されました。

集団的自衛権の行使を憲法の解釈変更で行われないことを求める意見書(案)の反対討論 を述べました。詳細は次の通り。(ちょっと長かった)

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集団的自衛権はなぜ必要なのか?親は子供に、大人になったら生きる術(すべ)をおしえなければなりません。大人になって一人で生きていくための術(すべ)を。しかもしっかりとした道徳規範を教えることが親の役目でもあるわけです。非常に重要なことです。
例えば、自分の我が子が帰宅途中に、暴漢や不審人物に襲われたとします。その現場を見た子供の親友や同級生が、A我が子を守るために必死になって、警察を呼んだり他の人の助けを呼んだり、一緒になって協力して、中には多少の怪我をしながらも、その暴漢または不審人物をを取り押さえ捕まえて警察を呼んで逮捕。一件落着。
親はその話を聞いて、親友の仲間の家まで行って、菓子折りを持って感謝の言葉を伝えます。「ありがとうございます」。そして我が子には、「彼らの取った行動に感謝して、彼らの両親にも礼を言うでしょう。もし親友に同じようなことが生じたら、その借りを返しなさい。困ったときには助けてあげなさいよ」と教える。このように子供に対して道徳としてキチンと教えることが常識ある親の行動だと私は感じます。

逆に、その仲間の内の一人が、ある暴漢や不審人物に襲われていたとします。私も自分の子供には、当然、先ほど教えを守るべきで、親友の手助けをして、義理を返して、あるべき行動をとって欲しいと思います。

ところが今の話を日本の国の国防の話に置き換えてみると、このような道徳のようにはいかないようになっているわけです。親友が危険に遭遇した時に、我が子はその友達に「親に、仲間には助けてもらっていいけど、仲間を助けることはしちゃいけないって言われている」と。「ま、仲間だから治療費くらいは払ってあげるから頑張ってよ」こう言い残して、我が子は、その現場を立ち去っていくわけです。親友や他の仲間はそれを聞いてしばし絶句するでしょう。そして我が子の取った態度に呆れかえることでしょう。(私はこの話を3人の中学生の話に聞かせました。どう思うと訪ねると3人の子供たちは、それは「親友とは言わないよ」と答えました。)

しかし日本の法律には憲法には「そうすべきだ。」と書いてあるわけです。これらの話を聞いて、私は親として大人として政治家として、様々なことを考えると、自分だけのことしか考えない無責任な我が儘な考えだとしか感じられない。このような我が儘をほっとくわけにはいきません。

集団的自衛権とは先ほどの親が常識的に思う。あるべき言葉とあるべき行動をとることなのです。まさに道徳なのです。そしてそれが回りの人間たちとの信頼関係と安心をもたらすわけであります。これは間違いのない事実です。

日本は世界No.2の経済大国で裕福な国ですが、平和憲法を守るために、「金は払うが血は流さない」という外交姿勢を一環として主張してきました。それは憲法にそのように書いてあるからであります。「金を出しているから協力しているからいいじゃん」と日本は主張してきたわけですが、これは世界の常識では全く通用しません。信用もされません。それを象徴する出来事が湾岸戦争の時の話です。当時、日本は約130億ドルのお金を払いました。しかしあの時、世界中の国の軍隊が血と汗を流している最中に、日本は資金を拠出することしかできなかった。こうした日本の行動は、国際社会から何も評価されなかったわけであります。現に、クウェートが湾岸戦争に、「援助し協力し、助けてくれた」各国に対しての感謝広告を戦争後に新聞などに発表したが、その感謝国リスト(30数カ国)に「JAPAN」の国名はなかったのであります。

世界の常識では集団的自衛権はどこの国にも認められている権利であります。日本が加盟している国連も認めているものです。日本だけが、認めていないわけであります。先ほどの例え話のままでいては、日本は世界から益々孤立して相手にされなくなります。そして日本の友好国はいなくなってしまう。このままでは、日本は世界の安全保障という蚊帳の外に取り残されてしまうでしょう。

今、まさに世界の情勢が激変している状況の中で、日本のこの立場は「避けては通れない」問題なのです。「戦争できる国になってしまう」「金だけだせば協力している」などと平和論者の我が儘勝手なザワゴトは、今のままでは通用しないのです。日本が実際に戦争に巻き込まれないように、また世界平和の秩序の構築に、日本が貢献するためにも、必要不可欠なものなのです。
現実的に、先ほどの暴漢のように日本に脅威を示す国からの圧力を守るためにも、「抑止力」が必要になります。夜の道を無防備に歩いていれば、暴漢や不審人物はいつでも襲ってきます。しかし、親友や仲間で、みんなで協力し合って、常にパトロールをして連携していれば、それが「抑止力」になって国を守る「自衛力」にもなるわけです。これが集団的自衛権の基本的な考え方なのです。
なぜいま、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更が必要なのか?
世界の現況を理解して頂きたい。我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増しているからであります。ここ数年で日本の3倍近い軍事費を持つに至った中国。今後もこの趨勢が続けば一層強い中国軍が登場すると強い懸念を表明しております。北朝鮮の核ミサイル開発も継続中であります。ロシアのクリミアに対する行動も世界の秩序に脅威をもたらしている。それに対して同盟国のアメリカは、これらの「そこにある危機に」つまり有事の際に、キチンと機能するかどうか?大変危ぶまれている。アメリカの態度が変化しつつあるわけであります。このように日本の安全保障の環境の劇的な変化に、適切にかつ迅速に対応するために、安倍総理は、集団的自衛権の解釈の変更を含めて法体制を整備するための協議に入ることを表明したのであります。これは大変思い切った決断だと思います。しかし、それは同時に責任ある政治家としての役割でもあり、日本の国民を守るための命懸けの決断なのです。
今回もそうだが、靖国参拝や特定秘密保護法の時と同じように、多くのマスメディアは、「戦争に巻き込まれる」「戦争ができる国になる」と安倍内閣たたきの連呼であります。お花畑に住む平和論、楽観論を論じているわけにはいかない。平和を守るためには、常日頃、血と汗を滲む大変な苦労や努力があって、はじめて成り立っているわけで、今回の集団的自衛権に反対表明している政治勢力には、あまりにも現状を把握せず理解していない。国防に関しての勉強不足も感じます。
安部総理はそれらの過去の空理空論を繰り返さずに、真の国の安全保障の議論を展開しているわけである。私はこの行動に全面的に支持を表明したいと考えます。

最後に、憲法解釈も喫緊の課題だが、現実的にはそれでも不十分だと考えます。先般、国民投票法案の改正なども進みました。憲法をキチンと改正して日本の安全保障の法整備を確立する環境がようやく整ってきたと言えると思います。憲法前文に書かれている『「平和を愛する諸国民」の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を委ねようと決意した。』この言葉は、世界の嘲笑のシンボルになっていることを知って頂かなければならない。「平和を愛する諸国民が、勝手に領海領土を侵犯している?竹島を不法に占拠している?ありもしない歴史をでっち上げて、自分のしている悪行は棚に上げて、難癖をつける。」そんな諸国民に、日本の安全と生存を委ねて、何になるのでしょうか?常識的にもよくわからないことがこの憲法の前文に書かれているわけであります。このように、よくわからない憲法を日本が保有しているということを今一度認識すべきだと思います。

なんといっても子供の教育に悪い。嘘を言っていることになるわけだから。この憲法を聞いて、十人十色の解釈を持ってしまいます。法律の専門家でしかよくわからない建て付けになっているわけです。自衛隊は、戦力であることを認めているのに、戦力は保持しないと書いてあるわけだから。日米安保条約まで結んでいて、日本国内にいっぱい基地を持っているわけだから。たぶん子供たちは「絶対、嘘じゃん」ということになるだろう。私は、いつまで矛盾していること子供達に教え続けるのかと言いたい?!憲法に従って、国の運営をしていくという教えを蔑ろにしているわけであります。教育にも悪い。真実をキチンと伝えていないわけであります。

本来、憲法とは誰もが読んでもよく理解できるようにしなければならないわけです。アメリカのような友好国も連携することももちろんですが、基本的には、自分たちのことは自分たちの責任で守る。アメリカも友達と言っても、裸になってお風呂は一緒に入っても、命まで共にしてくれるか?どうか?はわからないわけであります。そういう意味では、憲法改正の法整備も整いつつあるわけで、順序を守って、粛々と憲法改正の手続きに入るべきだと考えます。とにかく今の我々日本人、特に政治家は、キチンと子供達に未来の日本人にも嘘をつかないキチンとした道徳を。キチンとした生きる術を残して、伝えなければならないという義務があるということを最後に述べさせて頂きまして、反対討論といたします。