如是我聞

本日、ある人から頂いた言葉です。

我聞如是(がもんにょぜ)という言葉と、如是我聞(にょぜがもん)という言葉があります。お釈迦様が説法をしたときに、弟子達は自分の立場で話を聞き、お釈迦様の説法を聞いているのではないのです。お釈迦様の説法は頭の上を流れていきますが、心の中では違うことを考えたり場合によっては、美味しい物を考えたり、お釈迦様の説法を聞いても何も自分の心の中には入ってきません。
自分の立場でお釈迦様の説法を聞こうという立場を我聞如是と言います。自分が分かる範囲で聞いているのです。お釈迦様が説法をしていても分からないので、分かった部分だけを取り入れていくのです。
ところがそれは、本当は何も取り入れていないのであって我聞如是というのは、自分の境涯でお釈迦様の説法を聞くということです。お釈迦様の方も説法する側から言うと、この人が聞きたい事を説くのです。これは形を変えた我聞如是です。その人が聞きたいことを説いているのであって、お釈迦様が説きたいことを説いているのではありません。
Aさん、Bさんに合わせて、その人に合う分かりやすい教えを説いているのであって、その場合、聞いている側からいうと我聞如是ですから良く分かるのです。お釈迦様の側から言うと「我が意を得ない。私が説きたいものは、こんなものではありません。」ということであり、このように思っても相手に合わせて説いているのです。
ですから、「御利益がありますか?」と聞かれたら、お釈迦様も「あります。」と言うのです。「病気が治りますか?」と聞かれたら、「それは治ります。」と言うでしょう。
すべての経典は、我聞如是です。最後に説かれた法華経だけが如是我聞です。「私がお釈迦様の話をこう聞きました。」というのが、我聞如是です。「私には分かりませんが、仏様の御説法がありました。その内容はこの通りです。」というのが如是我聞です。経典では明確に使い分けられていて、我聞如是の経典なのか、如是我聞の経典なのかということが非常にはっきりしています。
如是我聞から始まる経典とは、妙法蓮華経しかありません。これだけ見ても、妙法蓮華経がお釈迦様の真義を顕しているということが分かります。我々もそうです。自分の考えをもって相手の人の話を聞いていたら人の話は全然分かりません。それでは我聞如是です。自分の考えで人の話を聞いているのですから、その人は何も変わりません。素直に教わったことを如是我聞と聞いて、「分かりました。まだ、お話の内容はよく分かりませんが必ず分かってみせます。」という受け取り方が大事です。
特に師匠と弟子の関係はそうで、師匠が言う事を如是我聞、「かくの如く承りました。」と受けていかないと、その人は成長しません。「先生の話の分かったところだけ聞きました。」というのは我聞如是です。そのようなことが多々あり、思い込みで人の話を聞いているので素直に入っていかないのです。
何回も言っていますが、「心ここにあらざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず。」(大学中庸)とは、まさにそのことを言っているのです。まず、人の話というものは、良く聞かなければいけません。分からなかったら、何度でも聞けば良いのです。聞いてから相手の言葉の真意をつかんでから行動しなければダメです。ところが、ヘナヘナしている人間は人の話を聞きません。ちょっと聞いただけで走っていってしまいます。
落語にもありますが、主人「おい、お使いに行ってくれないか。」と言うと、使用人「はい、行ってきます。」と人の話も聞かないで飛び出して戻ってきます。主人「何しに行ったんだ。」と聞かれると、使用人「何しに行ったんだっけ?」。
このような話が現実にあるのです。これではダメで、良く人の話を聞いて、相手が何を言いたいのかということを聞いて、掌握してから行動で確認するのです。「それは、こういうことですね。それでは、私はこのようなことをすれば良いのですね。」というように行動をしていかないと人との対話はできません。
人の話は良く聞きましょう。分からなかったら聞き直すのです。「これで、ようございますか?」と、ダメ押しをしてから行動をとれば間違いはありませんし、人間も落ち着いてきます。ピョン、ピョン、跳ねた行動はダメです。
如是我聞という精神を我々はいつも考えていかなければなりません。仏法に対しても如是我聞、世間のことに対してもよく聞くという如是我聞、そのような姿勢で行動しないと何年やっても修行にはなりません。

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