負けたくない父親論

負けたくない私の父親論

お盆休みが長く取れて、少し長文を。

私は5人の父親だが、5人の子どもたちに対して、いつも一つの考え方を持って、接している。基本的には、昔の会津藩の〈什(じゅう)の掟〉かな?什とは、5~10人の藩士の子どもたちの集まりのことらしいです。この什の教育の基本方針が、什の掟と言われるものですね。武士道精神の基本と言えるでしょう。「ならぬことはならぬものです」を徹底的に教えるわけですね。かなり古いじゃないですか?とのご指摘を受けるときもありますがね。しかしその大事な道徳の基本を教えるのは親しかいないと考えています。特に父親がね。

しかしそれを現代風に突っ走っていくと、変わり者の父親になるし、一般家庭では父親が子供に対してのかなりの抵抗勢力になることは、皆さんも創造するに難しくはないでしょうね。また私は、【父親の理不尽な抵抗を乗り越えれば、社会でやっていける!】という気持ちも強くある。たぶん、妻や子供たちには、到底理解できない考え方だろう。

20歳になった長女は、2時間30分もかけて、自宅から東京の大学に通っている。妻とおばあちゃんは、「大変だなあ」、「かわいそうだから」という理由から、娘に接する。基本的には、何から何まで親が手助けをしてしまう傾向が多い。他の兄弟に対しても大勢がそうと言える。今風のよくある母親と祖父母の子や孫に対する家庭の様子と言えよう。

私は真っ向から反対側の立場から、娘にものを言う。「少しでも学費でも自分がやりたいことは、バイトでも何でもして自分で稼げ」。「そしてそれを使って賄え。親から学費や遊ぶ金をだしてもらおうなんて考えるな」。だから基本的には、「大変だなあ」とか、「かわいそうだ」などとは、決して言わない。言わないようにしている。

長男でもそうだ。神奈川でアパートの一人暮らしを始めた長男にも、「早く奨学金の申請をして、金の工面を考えろ。」「車の免許を取得するためには、夏休みでもなんでもいいから、バイトしろ!金貯めて工面しろ」。1か月のアパート代や携帯電話代や生活費の中で、自分で賄うことができるものは、自分で稼げといっている。学業が本文だから、単位を落としてしまっては元も子もないが、ぎりぎりのところまでは、考えてほしいところだ。父としては、そんな経済的な視点も今のうちから、身に着けてほしい感覚だからだ。これも繰り返し繰り返し、口を酸っぱくして言い続ける。

最近、娘が飲食店でバイトをし始めたらしい。素晴らしいことだ。とにかく1,000円でも働いてお金を得ることがどんなに大変なことなのかを身体で覚えてほしいからだ。ところがアルバイトが終わってから帰宅するので、電車の時間が終電になってしまう。女の子だから妻は心配している。母親としては自然なことだが、私は、今の時期は頑張ってほしいと考えている。もちろん心配じゃないわけではない。娘にはその大変さを若い時期に体験をして知ってほしいからだ。若い時に是が非でも体験しておいてほしい重要なことだからだ。道徳の基本を身体で教え込む、体験を通して知ってもらうには重要なことだからだ。

私は、高校3年間を新聞配達と夜は他のバイトなどで賄っていた。家は裕福ではなかったので、「自分で賄うこと」ばかりを考えてきた。(言い換えれば貧乏性なのだろうが・・・笑。)早く自分で賄うことの感覚を身に着けてほしい。これから大人になったら、当然のごとくに毎日考えなければならない経済的感覚だからだ。

我が家での父親としての教育方針は、家庭的には、全く意見が食い違う点が多い。他にも高校生と中学生と小学生の兄弟がいるが、かなり大声で叱る。言っても聞かなければ、とっ捕まえて、拳骨くらいは当たり前だ。2番目の次男などは私が怒ったらトイレに隠れてしまった。思わず、私もトイレのドアノブを力強く引っ張ったら、壊れしてしまったほどだ。そんなエピソードは余計な話だが・・・。ようするに「叱る」、「殴る」これは当たり前の感覚だから、今の世の流れにはもろに逆行することになるだろう。暴力はダメに決まっているが、必要な体罰だってあると私は思っています。やるときは徹底的に態度で示してやる必要があるからだ。

今は学校でも生徒が「殴ってみろ」と教師に顔を突き出すことがあるそうだ。家庭内でも子どもが、親が殴るといって警察に通報する例もあるらしいが、パワハラを盾に、社会を知らぬ未熟な子どもたちの増長を促すことになっている一例と言えるだろう。以前、ジャズトランペットの日野照正さんが、ドラム演奏をしていた男子学生をビンタしていた動画が流れていたが、話をしてわからなければ、身体に教えるしかないでしょう。叱る大人だって相当の覚悟を持って殴っているわけだから・・・。事情も知らぬコメンテーターが何をほざいているかと思っていましたが。

「褒めて育てろ」を実行してもちろん成果は出ることもあるでしょう?しかし、すべてに当てはまるわけでもないし、体罰だって同じですよ。その時の状況に応じて、如何に子供たちに接するか?親として悩みながらも必死になって、決断してやっているわけです。

昨今は、何でも「褒めて育てろ」が子育てのセオリーのように言われますが、それを実行して、引きこもりやいじめは解決したのでしょうか?むしろますます深刻化になっているのでは?

本来、子どもは叱られた不快感によって「自分が成長しなければ」と自覚する側面があると思います。叱られる権利は、子どもしか与えられない。また叱ることができるのは、親しかいないし、特に父親が最優先です。むしろ父親しかできない重要なことだとも言えるでしょう。ここに父性の必要性が感じられます。

また特に18~20代前半の子供に対しては、親の手ほどきもある程度は必要だが、何でも一人で生活の全般を体験させて、失敗や知らないことをしっかりと体現させる必要があると感じます。「恥をかかせる」ことも必要なのではないかと考えています。学力だけが重要ではないではずで、「恥」を知れば、己がどんなに無知で、また他の人との能力の差に気付くはずです。実際には、社会は平等ではないわけです。社会にでれば必ず優劣に晒されます。社会に放り出して、自分でやらせてみせて、自分の劣っているところがあれば、必ず「恥」はかきます。「辱め」も感じるでしょう。ひとつの「辱め」を感じてもらうことは人間が成長するためには、避けて通れない過程ではないでしょうか?

ところがこの「恥」や「辱め」をさせることに、今風の大人社会の感覚からすれば、子どもの成長を妨げる要素となっている考え方が多いようで、ほとんどの親は助け舟を出して対応しているように感じるのです。まったく逆のことをやっているように感じます。もしかしたら、もっとも重要なことを真逆の対応に。いわゆる助け舟を出してやる親の対応の履き違いの一例とも言えるでしょう。

先の参議院選挙で、れいわ新選組の山本太郎が、大学の奨学金制度の撤廃を訴えていました。子どもに借金させて、金融機関に儲けさせる財務省の政策を批判していました。その涙ながらの街頭演説でかなりの人が、心動かされて山本太郎に投票しただろう。私もその動画をみて、確かに、感動すら共有した感覚もありましたし、納得することもありました。がしかしながら、どこかに引っかかるものがありました。すべてには賛同できない。どうしても、うさん臭さと「そこはちょっと違いませんか?」と感じもしました。奨学金制度の本質とは違う議論になっているのでは?との一部、納得できない個所でもありました。彼は貧困問題と差別社会問題の政策課題の表現として、パフォーマンスとして、そんな言い方をしたのだと思います。表現者としてはうまいですね。拍手を送るほどですが、・・。やはり私は懐疑的に感じていました。

子どもに道徳を徹底的に教え込む時期が、まさに思春期ですね。子どもたちとの反抗にも負けてはならぬと思いながらも、親として悩みながらの毎日を送っています。また一方で、ニュースでは、子どもの躾と称して、家庭内の体罰についても問題が生じていることも事実です。大人はもちろん親として、道徳の実践者としての修練が大前提にならなければ、この父親は成り立たないことは言うまでもありません。

今の社会に欠けていることが厳しい父親像の欠如です。これを克服するためには、多くの社会的要素との戦いに負けないようにしなければなりません。男女平等や女性の社会進出が多く言われる世の中。これからは女性の社会だと多く言われます。だからこそ、絶対的に必要な“父性の欠如”が問題なのです。これに負けるわけにはいかない。

私も怠惰な一人の人間です。自分の日々の心がけと怠惰な面を克服するために、心づかいの指針を日々繰り返していきたい。自分に負けないためにも頑張るしかないと考えています。私ももう51歳です。父親の仕事ができるのは、そう長くはないのだから・・・。

PS:これをSNSでアップしたら、まず家庭内での戦いが早速起こりそうだ・・・。