市民活動と議会の議論の違い

3月議会が始まった。総合運動公園の予算も5億ほど予算化している。さて、議会でも住民投票について話題が沸騰している。何回か「住民投票」に対する考え方をFacebookでもアップさせていただいているが、2月15日の読売新聞の朝刊に載っていたことで再度コメント。

地方自治体でも同じだが、国政の政治課題についても「住民投票」。まったくもってこれほど迷惑な言葉がないと感じる。

住民投票が市民活動としている様に報道機関は、報道するが、大体この手の運動は、プロの市民政治活動家が誘導して行っていることが大半だ。しかも大体、革新系の政治勢力が「市民」という言葉を盾に、一つの案件に標的を決めて、しかも論点を歪曲化していつの間にか、言葉尻をとらえたような是非を住民投票でやらせようとすることがほとんどのように感じる。

国策で言えば昨年の「特定秘密保護法」の時もそうであったし、「集団的自衛権の解釈変更」の時もそうだった。(集団的自衛権の時は、「戦争ができる国」などの言葉を引用するやり方。)原発事故の後は「原発再稼働反対」も同じようだ。これらの革新系の誘導する市民運動及び政治運動で、注意しなければならないことは、どれも有権者や本当の市民に対して、きわめて冷静な議論をさせようとすることを邪魔している。または、一時的や感情的な論点で、議論をさせようと誘導していることだ。

元来、国の重要政策または国民の安全保障の問題にしても、重要なことを慎重に決定しなければならないわけで、そこにある議論は慎重に様々な意見をくみ取って、総合的な審議を展開しなければならない。各論は大いに議論しても、総論を最終的に決議するわけなので、議論する現場は、静粛に厳粛に、落ち着いた環境での議論を展開する必要がある。

私は、革新系の政治勢力に一つだけ言いたいことは、卑怯なことはやめてほしいということだ。落ち着いた慎重なる議論する場を壊そうとすることは卑怯だということだ。選挙という間接民主主義の原則に則って、政治目標を達成したいならば、多くの議員を当選させて、議会で勝ち上がっていくしかないわけだ。そして合議と多数決の原理に従って、議会の場で、議員が戦っていく方法が一番平等だということを改めて確認してもらいたいと思うのだ。民主主義の歴史の積み重ねて整ってきた政治の決め方は、多くの知恵により、現在の日本の議会、政治制度が決められているわけなのだ。その方法で力が及ばないからと言って、いたずらに有権者の感情を煽り立てる「市民活動」なる手法は、卑怯の何物でもない。

政治家が卑怯なことをばかりをやっていると、政治がよくなるわけがない。政治家は、指導者であり、リーダーである。卑怯な手法よりも大義を立てて、戦うことが指導者だ。子供たちにそんな有様を説明できない。教育にも悪い。

つくば市の運動公園の議論も「住民投票」についての話題があるが、冷静な議論に基づいて質すべき案件だと思う。国政のついても原発の問題も安全保障の問題についても、歴史認識の問題にしても、事実と現状の課題を冷静に、議会で政治家である議員がきちんと勉強して議論で戦わせるべきだと思う。10854396_837104566365282_433419564406626002_o