親父に

新盆が近づいている。6月24日に私の父が逝って早いものでもうすぐ49日を迎える。

父が逝ったということで、しばらくは比較的に静かな日々を過ごしていました。普段だったら、積極的に顔出しをしていたが、自粛して控えめにしていました。巷では、今日から茨城県知事選挙が始まり、熱を帯びているようだ。つくば市議会も9月定例会をひかえている。衆議院の解散も予断を許さない時期を向かえつつある。

普段の生活にようやく戻りつつあるが、父を亡くしてひとつ変化したことがある。議員としてもしくは男として、もしくは父親として、日々の生活の中の判断や行動をする時に、必ず亡くなった父親の心情を察するようになった。比較するようになった。

私も49になり、父親だったらどうしたろう?とか、親父が生きた同じような境遇を推察して、「たぶん、親父もこんな想いだったのだろうな?」とか、今の自分の心境と親父の心境を勝手に仮定して比較するようになった。回想するようになった。

今までとは、また異質な男の心情を強く感じる。

結構、親父は我が心の迷いや本当の気持ちを、包み隠さず、表現していたようにも思われる。親父の昔を思い出すと、中には、見栄を張っていただろうシーンもあったし?恥も外聞もなく本音を表現していただろうシーンもあったように思うのだ。親父はそれを子供の私に、ありのままの自分の姿を見せていたようにも思うのだ。

親父の人生は、とても苦労が絶えない、むしろ苦労だらけの人生だと思っていた。しかし、それは子供の私が勝手に推察して評価しているだけで、親父自身はそれほど苦労として感じていなかったのかな?などと感じるようにもなった。

子供だった私にも、ありのままの人間の姿を見せてくれたようにも思える。そう感じる。まあ、あくまでも私の予想ではあるが・・・。

とまあ、親父が逝ってから、上記のような心情を繰り返し繰り返し感じるようになったことは事実だ。道徳心でいえば、私が子として親を想う気持ちなどは、確かに尊い事で、道徳的にいえばとても大切なことだが、その大きさはとても小さい。親父が私達、子を想っていた大きさにはとてもかなわない。

吉田松陰の辞世の句が頭をよぎる。「親思う心に勝る親心 今日のおとずれ 何と聞くらん」。

生きているときは、会話するのが嫌だったけど、今は、もう少し生きている間に会話しときゃよかったと反省しきりだ。( ´ ▽ ` )

明日は49日。でも今日あたりからからまた積極的な日々に復活しようと思う。
「何やってんだ」と親父が言っているようだ。

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